彼自身の話では、自分は元々俳優志望だったが自分には向いていないと感じ、裏方の仕事を始めたそうです。演技の勉強が役に立ち、モデルを通じて自分は感情を表現しているのだと言う。ハリーハウゼンのモンスターたちは彼の分身というわけです。
パルのスタジオで12本の作品に参加したのち、第二次世界大戦勃発により、一時映画界から離れる事になる。ここで彼は映画班(そんなものがあったのか?)に転属されて、軍隊の機材を使用して、兵士の教育用映画を制作する機会に恵まれた。

除隊後、軍隊が捨ててしまったフィルムを回収しておいたハリーハウゼンは、それを利用して、『おとぎ話シリーズ』の自主制作を開始する。そして、『マザーグース物語』、『赤ずきんちゃん』、『ヘンゼルとグレーテル』、『ラプンツェル姫のお話』、『ミダス王のお話』の5本の短編が出来上がった。
この5本の短編は、エンジニアであった父がハリーハウゼンの描いたデザイン画を元に骨組みを作り、服は母が作るというハリーハウゼン一家総動員という作品となっています。そして、これらの作品は今でもハリーハウゼン初期の作品として、全米の学校や教会、図書館などに配布されているそうです。日本で見ることができないのは非常に残念。

ハリーハウゼンが6本目のおとぎ話である『うさぎとかめ』を制作しようとしていた1949年、師匠であるウィリス・オブライエンが『猿人ジョー・ヤング』の製作に取りかかる。

オブライエンによってチーフアニメーターに抜擢されたハリーハウゼンは『うさぎとかめ』の制作をあきらめ『猿人ジョー・ヤング』に参加。モデルアニメーションの約85パーセントを担当し、実質上これが彼の映画デビュー作となった。この作品が、アカデミー特撮効果受賞を受賞し、ハリーハウゼンの評価は決定的なものとなり、『原子怪獣現わる』(1953)で本格デビュー。この映画の大成功の後、プロデューサーのチャールズ・H・シニアと出会い、シニアという良き理解者を得たハリーハウゼンはその後、数多くの映画史に残る傑作を生み出すことになる。学校などでは、今でも『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』が神話を学ぶ目的で上映されているそうです。